Page 9 - 제28회 영산재 카다로그
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奉元寺沿革 奉元寺沿革
奉元寺由道詵國師(827-898)於新羅第51代眞聖女王3年 奉元寺は新羅51代(西曆889年)眞聖女王3年に道詵國師が現
(己酉,889年), 在現延世大學位置所創建,稱爲般若寺。 在の延世大學の地に建てた寺である。近世· 朝鮮時代第21代
英祖大王24年(西曆1748年)に贊汁· 增岩の二名の禪師が延世
第21代英祖24年(戊辰,1748年),由贊汁大師和增岩禪師將
般若寺搬遷到如今的場地,當時英祖親筆爲奉元寺懸板題 大學の地から少し離れた所に移して新しく建てたので,セ
詞。從此,信徒們將新建的寺院稱爲‘ 新寺’ 。
ジョル(新しい寺)と呼ばれている.1880年から開化派の先覺
第26代高宗21年(甲申,1884年)所發生的甲申政變是由金玉
均,朴泳孝,徐光範等開化派人士主導的革命,李東仁僧 者金玉均の精神的な指導者であり,甲申政變の革命同士で
侶曾旣是他們的精神指導者,又擔任過5年期間的駐錫,所
以此地旣是甲申政變的搖籃。 あった李東仁僧侶が5年間駐蓆をし,甲申政變を胎動させた
在1911(辛亥)年,由寶潭主持重新修建,才有了如今的面 搖籃の地であった。奉元寺は韓國の精神的な支柱としての役
貌。 割も果たした寺である。
1911年住職の寶潭が敷地が確保されたこともあり,寺院のの
在1945(乙酉)年,由起月主持和化主云波僧借助群衆的援
助建立光復紀念館。但是,在1950(庚寅)年9月28日,侵占 修造を行い,現在のような外觀となった。
漢城當時被 火燒毁光復紀念館。 當時,一同遺失英祖親 1945年住職の起月と化主の雲波と信者たちの誠心を集めて
筆懸板等寺寶、 李東仁僧侶及開化派人士的遺物。
光復記念館を建てた。1950年9月28日ソウル修復當時,兵火
在1966(丙午)年,由映月主持和化主云波僧借助群衆的援 で光復記念館が燒失された。これで,英祖大王が直接書い
助重建遺失的念佛堂, 是從原來大院君別處孔德洞我笑 た懸板をはじめいろいろな遺物が燒失された。
亭搬遷過來的建築物。 1966年住職の映月,化主の雲波をはじめ僧侶と信者たちの
如今,奉元寺是韓國佛敎傳統宗團太古宗宗本山,繼承着 誠心で燒失された念佛堂を再建した。この建物は大院君の
傳法修行命脈,此地有六十多位僧侶,十萬多位信徒,由 別所だった我笑亭をそのままの形で移したものである。
重要無形文化遺産第50號(梵唄)朴松岩僧侶(在2000年2月 現在奉元寺は韓國佛敎の傳統宗團である太古宗の總本山
入籍),第48號(丹靑)李萬奉僧侶邊在此地修行,邊指導后
學。比如設有附屬玉川梵音大學敎育機關;還有觀音會, で,傳法修行の脈を受け繼ぎ,佛敎藝術を傳承· 繼承して
華嚴法會,靑年會,學生會,兒童讀經會等法會,而且定
期訪問監獄,少年敎化院,養老院,孤兒院,部隊等展開 いる。僧侶は60人で,信者は約10萬人である。また韓國佛
敎化活動,盡太古宗宗本山的職責。 敎藝術の精神的指導者である,重要無形文化財第五十號(梵
唄)の朴松岩師(2000年2月入寂),佛敎美術の丹靑重要無形
文化財第四十八號の李萬奉師が所屬されている傳統的寺院
でもある。敎育機關としては靈山齋保存會の附設である玉
泉梵音大學があって,所屬している團體は觀音會をはじめ
華嚴法會· 靑年會· 學生會· 子供たちの法會の人定會があ
る。この團體は對外的には刑務所· 少年院· 老人ホ-ム·
孤兒院· 軍の部隊などを定期的に訪問して敎化活動を行っ
ていながら,太古宗の總本山としての役割を果たしている。
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